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2018年 04月 06日
11歳(幼少名・忠範ただのり)から29歳(範宴・はんねん)まで比叡山で修行した親鸞は下山して法然上人の門下となる。師の教え「念仏を唱えれば、極悪人でも、浄土に成仏できる」という専修念仏(せんじゅねんぶつ)が誰からも暮らしの中で正しく理解されるようにと願い「顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)」を書き続けている。
一方、「法然・親鸞が説く専修念仏は師と仰ぐ慈円の教えとは相容れない」とする船岡山・覚蓮寺の覚蓮坊は、葛山申麻呂、錦小路の借上の元締・蒲屋道造、それに、白川印字の新首領・勘太の4人が鎌首をもたげて親鸞一家と竜夫人に刻々と迫ってくる。 親鸞は唯円(ゆいえん)の支えを受けながら西洞院(にしのとういん)で長男・善鸞一家と暮らしている。親鸞は、善鸞が専修念仏の大本に立脚した念仏僧と成ることを心から願っているのだが、「都で評判が高い唱導師・善鸞殿を東国に招きたい」という常陸国・笠間の妙禅坊の誘いに心が動き、親鸞に願い出る。「自ら選んだ道を行くしかない」と善鸞の東国行を許したが「親鸞の名代として長男・善鸞を使わす旨の書面をお授け下さい」という善鸞の妻・涼(すず)の悲痛な願を親鸞は断る。が、親鸞から直筆十文字の名号「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」を手渡された善鸞一家は東国に旅立つ。 かつて都に流行した節で「弥陀の誓いぞたのもしき、十悪五逆の人なれど、ひとたび御名(みな)をとなうれば、来迎引接(らいごういんじょう)うたがわず」と今様(いまよう)を唱導する善鸞の評判は東国各地で高まって行くが、いつしか善鸞の心の片隅に「慢心」というあるまじき「奢り」が住み付き、嵩じて、親鸞を物心両面で支え続ける面授の弟子・高田の真仏(しんぶつ)や横曽根の性信(しょうしん)や鹿島の順信(じゅんしん)に対し「父、親鸞の代理として東国にやってきた」と親鸞直筆の「名号」を見せるに至り、三高僧との間に軋轢が生じ始める。 宋との交易で莫大な資金を手にしている竜夫人(りゅうぶじん)は、鴨川・五条河原で斬首された法然上人門下・安楽坊遵西(じゅんさい)を祀るため、嵯峨野に異国風の寺・竜大山遵念寺(りゅうたいざんじゅんねんじ)を建立しようとしているが、その資金の流れを遮断しようと、覚蓮坊は、鎌倉役人を買収し、宋船使用を禁じる策に出る。寺の建立に湯水の如くに投入してきた資金が底をつき始めた竜夫人は、考えに考えた末に、二千貫文の証文を差し出して葛山申麻呂に資金を借りるが、この時、竜夫人は申麻呂の出自を明かす。 遵念寺の落慶法要が近付いてきた。 親鸞聖人と竜夫人を亡き者にして遵念寺をそっくり我が物にしようと企む覚蓮坊たちは竜夫人を拉致し談合坂の黒面法師の館に連れ込む。「このまま宋に帰ればそれでよし、さもなくば・・・」と針木馬で脅かす、が、周到な竜夫人に逆襲される。 竜夫人は、世に秘められた名作・徽宋の李燕図(きそうのりえんず)を携え、文人・歌詠みとして知られる六波羅・北条時安の館に出向き「専修念仏迫害が激しさを増して来た47年前、後鳥羽上皇をそそのかし、安楽坊遵西を斬首の刑に処したのは覚蓮坊の企み、最近の所業は目に余る。覚蓮坊一派の捕縛を」と懇願する。「わかった」と時安はうなずいたのだが・・・。 時安は覚蓮坊の捕縛を検非違使庁(けびいしちょう=鎌倉幕府から京へ派遣され朝廷の動きを監視し都の治安を司る役所)を牛耳っている鬼塚武綱に命じたが、武綱の上司検非違使庁長官・藤原顕朝(ふじわらあきとも)は「その話は、ないにしろ」と命ずる。 藤原顕朝は、近々関白の位につく摂政・鷹司兼平の指南役・花山倫道の邸に出向き「専修念仏からこの国を救うために覚蓮坊を捕縛したと見せかけ、安心して落慶法要に集まってくる念仏者たちを、一挙に捕える」という世にも恐ろしい企てが、密かに話し合われる。 竜夫人は親鸞を訪ね「落慶法要の導師をつとめて頂きたい」と願うのだが、親鸞は「それは、できない。わたしの信じる念仏とは、誰かが先頭に立って人々を導いていく、そのような念仏ではないのだよ。その日は、わたしも念仏者の一人として、寺にうかがわせてもらうことにしよう」と応じた。 竜大山遵念寺(りゅうたいざんじゅんねんじ)本堂へつづく石畳の両側に、布地や履物を売る店、饅頭や団子を売る店、鋏をカチカチ鳴らしながら飴を売る店、玩具や小物を売る店などが隙間もないほど並び、その間を人々が押し合いへしあいながら流れていく。 大舞台は出来上がり、空前絶後のクライマックスを迎えようとしている。 竜夫人は「きょうのところは、念仏者のかたがたをお守りすることが出来ました。この寺は申麻呂どのと常吉にお任せし、私は宋に戻ります」と万感の思いを込めて親鸞に言った。 親鸞は84歳となった。 善鸞が東国に旅立つ時、親鸞は「人前で念仏の理(ことわり)を説いたり、正しい念仏者のように振る舞ったりしないように、ひたすら、唱導に励むのだよ」と、はなむけの言葉を与えていたのだが、善鸞と横曽根の性信や鹿島の順信など面授の弟子たちとの対立が抜き差しならない状態に至った。眠れぬ夜を幾日も過ごしていた親鸞は、善鸞に「親でもなければ子でもない」という義絶の手紙を送った。 88歳になった親鸞の許に東国から善鸞の長男・如信(にょしん)が訪ねてきて「父のこと深くお詫び申し上げたく、お訪ねいたしました」と礼儀正しく挨拶をした。 90歳を目前にした親鸞は、和讃を口ずさんだり選択集(せんじゃくしょう)の書写をしたり、去年暮れに書き上げた阿弥陀如来の名号に関する文章(もんじょう)を訂正したり加筆したりする日々を過ごしていたが「わたしは長く生きてきた。これまでいくつかの文章を書き人にも念仏のことを語って来た。だが、それだけのことだ。ひと皮むけば、恥ずべき自分、悲しき自分がとぐろを巻いている。煩悩断ち難き凡夫なのだ。だからこそ、ただ一筋に他力を頼むしか道はないのだ」と、部屋の壁にかけられた名号・帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじつぽうむげこうにょらい)に目をやり「ああ、ありがたい、ありがたい、南無阿弥陀仏」と合掌すると、自分の心にほのかな光がさしてくるように思うのであった。 11月のはじめ、杖をついて雪の庭にでた親鸞は足がもつれ、枯木が倒れるように転んだ。11月28日の朝方、口をかすかに開いたまま息絶えた。 著者は“あとがき”で「この作品は、あくまで世俗間に流布する噂話をもとに創作された典型的な稗史(はいし)小説である」と言っている。が、青春編から激動編へ、そして、完結編へと読み進むうちに、これまで、仏陀の生涯について思索を深め仏陀の道と百寺を巡礼してこられた著者の思いが、親鸞90年の生涯の中で流布してきた「稗史(はいし)」を組み合わせる事によって、見事なまでに、専修念仏(せんじゅねんぶつ)と他力本願の核心部分が語りつくされている。 また、文芸評論家・末国善己氏の解説は一読の価値があるものであった。 読み終え聞き終えた妻から「すっかり五木さんの文章に慣れ切ってしまったわね。今様(いまよう)でも聞くように、よどみないあなたの声が両耳からすーと入ってきて、とても心地良かったわよ」と、最大級の労い?があったのだが、上・下800ページにわたる「親鸞」の世界を読了した今、映画でいえば名脇役とでもいうのか、これは疑いのない片思いであったが、70歳を超えて初めて女人・竜夫人に淡い恋慕を抱いた常吉や「わしらはみんな河原のつぶて(石ころ)みたいなもんや。地獄に行ったら牛頭(ごず)、馬頭(めず)でも、閻魔大王でも打ったる。それが白川の印字ちゅうもんや」と覚蓮坊一派と渡り合ったツブテの弥七などの顔姿(イメージ)が頭から離れず、このまま書庫に収めてしまうのは「とても、とても、忍び難い」という思いに駆られたのであった。
by c-bridge
| 2018-04-06 14:07
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