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2018年 11月 06日
激闘中に敵兵の槍で太腿に深手を負い医師フィリッポスの応急手当で事なきを得た若き王は、戦死者たちを荼毘に付して埋葬し、傷を負った兵士たちを見舞い、これ以上の参戦が不可能な兵士たちを故国に帰す手筈を整え、学友仲間・ヘーファイスティオンを連れて戦場後方に張られた王家の女たちの天幕を訪れた。ペルシアの富を象徴するかのような豪華な造りの天幕の中から、女たちの泣き叫ぶ声が聞えていた。
ペルシアの王室では、戦勝を確信した戦闘には家族も同行する習慣があり、母后や王妃、それに、二人の王女たちや女官たちが置き去りにされていたのである。 母后が二人の足許にひざまづき泣き崩れながら命乞いをする。元々からして母親っ子のアレクサンドロス、他人の母に対する尊称である「御母堂」と呼びかけながら「何も心配することはありません。これまで通りにお過ごしになれます。名誉や地位を損なうような行為は、兵士たちにも厳しく命じます。王の消息が分かり次第、お知らせいたしましょう」と約束しただ。 連戦連勝を続け速攻に次ぐ速攻でイッソスの会戦を勝ち取った23歳の若き王であったが、故国の首都ペラを発ちイッソスの会戦までの道のりは、遠大な構想の「東征」全体から見れば、ようやく、十分の一くらいの所まで来たようなもの、アレクサンドロスはこの先の遠征について、東方のメソポタミアに侵攻すべきか、或は、南方の中近東を経てエジプトにすべきか、東征の成否を決める重大な岐路に立っていた。 南方の中近東・エジプト遠征を選択したアレクサンドロスは地中海に沿って進軍したのだが、沿岸沿いに点在するラオデキア、トリポリ、ベールート、シドン、キプロス島などの海港都市がこれまでのペルシアを捨てアレクサンドロスの支配を受け入れた。 しかし、500メートル沖合にある小島を「海に浮かぶ新市街地」として造り直し、フェニキアに軍港とし提供している海港都市・ティロスが立ち塞がった。アレクサンドロスは突堤を築いて攻撃に出ようとするが、小舟からの矢や投石器で妨害され燃え上がる大型船を追突させたり、防戦や消火に手間取ってなかなか攻撃の目処が立たない。 業を煮やした若き王は、平和裏に開門した沿岸沿いの各都市に艦船の派遣を命令、アテネの三段ガレー船も加えた240隻で島全体を包囲し「封鎖作戦=兵糧攻め」に切り替えた。 怯むティロス軍に攻撃特化歩兵部隊・ヒパスピスタイの猛攻撃を展開、7ヶ月も費やし「ティロス攻防戦」はようやく終わった。 アレクサンドロスは、この「海に浮かぶティロス」をマケドニアの海上の砦・海軍基地に作り変えていく。 ティロス攻防戦に勝利し戦後処理に忙しいアレクサンドロスの許にペルシア王から講和の申し入れが届いた。「王家の女たちの身代金1万タレントの支払いと王女一人をアレクサンドロスに嫁がせる」という案に加え「ユーフラテス河以西全域の地を譲渡する」という内容であった。 パルメニオンは「諸々の状況からして、この講和は受けるべきだ」と進言したが、アレクサンドロスは「パルメニオンならば、そうするだろう。だが私は、パルメニオンではない」と拒否し中近東からエジプトに向かったが、交通の要衝「ガザ」が平和裏の開門を拒否したのだ。 勝利を決するに二ヶ月も掛かってしまったガザ攻防戦であったが、スイッソスの会戦では槍で太腿に深手を負い、ティロス攻防戦でも投石で左肩を強打したアレクサンドロは、ガザ攻防戦でも、左肩深くに矢が突き刺さって重傷を負ったのである。 ガザを制した24歳のアレクサンドロスは、即、エジプトに向かった。 エジプトはペルシアの支配に不満を抱き続けてきた国であったので、連戦連勝のマケドニア軍を解放者として迎い入れてくれた。 アレクサンドロスは久々の休息と観光を楽しみ、海に面したこの土地に「地中海に冠たる最高最上の海港都市を建設する」と決め「アレクサンドリア」と名付けた新都市を作り上げたのである。 彼は新都市アレクサンドリアから、エジプト南東部・ナイル河東岸にある古代エジプトの最高神アモンラーを祭るアモ神殿に参り、そこから、ナイル川河口デルタ地帯の古代エジプトの首都・メンフィスまで、400キロもの距離となる砂漠を横断、マケドニア海軍の基地としたティロスに到着、そこで、ダリウス率いるペルシア帝国の大軍勢がユーフラテス河とティグリス河とに挟まれた広大な平野・メソポタニア地方(現・イラクの首都バグダッドがある一帯)の「ガウガメラ」で集結しているとの情報を得た。 紀元前331年7月、25歳になったアレクサンドロスはティロスから更に北上、世界一古くから人が住み続けている都市として知られるシリアの首都ダマスカスで4万8千の全軍を結集、ティグリス河上流のガウガメラに向けて軍を進めた。 砂漠や大河が横たわるガウガメラ、より安全な行軍と可能な限り旅程短縮を実現するために、若き王自ら行うペルシア兵捕虜の尋問から得た情報で、行軍順路に関する現地人ガイドの案や自軍兵士の偵察情報の整合性をチエックしながら、500キロ先のユーフラテス河を無事に渡ってメソポタニア地方に入り、9月には大河ティグリスを渡河し、ダリウス率いるペルシア帝国の大軍勢が集結しているガウガメラに到着、頻繁に偵察にやって来るペルシア軍の斥候を捕虜にして尋問を重ね、正確な敵の戦力を把握した。 20万を超える歩兵と4万に迫る騎兵、二頭立ての戦車の両輪に取り付けられた鋭い巨大な鎌が左右をなぎ倒しながら走る二百を超える戦車、背上に設えられた柵から投げ槍や矢を浴びせる十五頭の象、総勢二十五万の大軍団、用意万端整ったペルシア軍である。 紀元前331年11月1日早朝に始まった「ガウガメラの会戦」は、ただ単に、二十五万対五万の闘いではなく、陣形や戦い方を「手足の如く駆使できたか」、それとも、「できなかったか」の即応の対決となった。 アレクサンドロスは、同行させていた動植物の専門家に「戦場に於ける像の行動」について意見を求め、「巨大な体躯と猛烈な突進力はあるが、象のコントロールは難しく、一旦、敵に恐れをなすとUターンして暴走する」という象の特性を確認、次いで大鎌付き戦車の機動力を調べ、「自在に活躍するに足る空間は5m(馬身+戦車)×3m(馬上の箱幅+戦車左右の大鎌の長さ)、故に、二百台勢揃いの一斉攻撃は不可能」である事を確かめた。 初めてお目にかかるペルシアの新兵器の弱点を見抜いたアレクサンドロスは、次の命令を発した。 歩兵軍団・ファランクスに対し「長槍を突き立てた巨大なハリネズミで、象を徹底的に驚かせ」と命じ、中央の歩兵軍団に対しては「戦車が向かって来たらさっと身をかわし、通り過ぎたら戦列を閉じて馬を倒せ」と命じ、敵左翼の騎兵団の攻撃を阻止する右翼の歩兵(クレタ島出身の弓兵が主力)には「将を射んとせば馬を射よ」と命じ、「敵右翼の騎兵軍団の猛攻に曝される左翼の騎兵軍団を援護せよ」と、中央第一軍団の後方に控えていた中央第二軍団に命じたのだ。 戦況はアレクサンドロスの思惑通りに進んだ。 大山鳴動のようなハリネズミ軍団の動きに度肝を抜かれ戦意を失った15頭の象は大きな叫び声をあげながらUターンして後方の味方兵士の中に突っ込み、まんまと自動開閉ドアのような戦法に引っかかった鎌付き戦車隊も総崩れ、「将を射ず馬を射よ」の命を忠実に実行したクレタの弓兵によって敵左翼の騎兵団の陣形は崩壊、その瞬間、王ダリウスが率いる中央(主戦力のペルシア重装歩兵)との間に「ぽっかり」と谷間ができたのだ。 アレクサンドロスは「それっ!今だ!」と叫びながら三千騎の先頭を切り、敵中央と左翼の間に生じた谷間目がけて突入した。 像と鎌つき戦車の惨めな最期を見、ベッソス率いる左翼騎兵軍団も撤退を余儀なくされ、真正面からパルメニオン率いる巨大なハリネズミが迫り、そして、今まさに、中央にいる自分(王ダリウス)の左脇からアレクサンドロス率いるマケドニア騎兵軍団が砂煙を上げて猛進してくる。堪りかねた王ダリウスは、またもや、味方の兵たちをかき分けながら逃げ出したのだ。 これが、史上有名な「ガウガメラの会戦」の結末である。 ギリシア人の物語Ⅲ―新しき力その9に続く
by c-bridge
| 2018-11-06 18:05
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