二三日前、何気なくTVチャンネルを回していたらNHKの歌番組で上条恒彦の姿が目に留まった。久しぶりだなーと思いながら観ていると、ちょうど今からステージに進むところで、そのまま視聴を続けることにした。
無造作にステージ中央に立った上条が歌ったのは「生きているということは」という歌であった。いま、若者たちの間で静かな広がりを見せている歌なのだそうだ。
「どこかで、だれかが、きっと待っていてくれるー」という歌詞で始まるTV時代劇.木枯し紋次郎も上条の歌だったなーなどと思い出しながら、頭も顔も白髪のほうが多くなったステージの人を、懐かしい人にでも出会ったような気持で聴いていた。
ところで、上条が熱唱した「生きているということは」という歌は、作詞が永六輔、作曲が中村八大のコンビで作られたものであるが、その元となったものは、寺の住職(東京.浅草.最尊寺)であった父親の生活信条をまとめた著書「大往生 1994年 岩波新書」である。
著書には次のような一節がある。
「父の生き方をまとめると次の三つになる。無理をしない、静かに生きる、借りたら返す。“借りたら返す”ということは、例えば、手紙の返事を必ず書くということだ。この躾で育ったため、私は放送の仕事で、年間三万通を超える投書のすべてに返事を書いて倒れたことすらある」と読者を笑わせ、そして、「借りたら返す、という父の言葉を詞にしたことがある」と、ここで「生きているということは」を紹介している。
生きているということは 誰かに借りをつくること
生きてゆくということは その借りを返してゆくこと
誰かに借りたら 誰かに返そう
誰かにそうして貰ったように
誰かにそうしてあげよう
この“詞”に対しどのように向き合うべきかについては、夫々が歩んできた日常によって異なるものなのであろうが、自分は、定年後から始めた新入社員研修で、毎回この“詞”を教材としてきたものだ。
新入社員研修では、社会人として自立するための基本や技術など、カリキュラムは多岐にわたるのだが、「聞き方」に関する基本講義を済ませた後の応用編のプログラムで、この“詞”を教材として利用する。
ゆっくりと“詞”の一篇を講師が読み、受講者は傾聴する。読み終えたところで、手元の用紙に“詞”を再現させ、頃合いを見計らって発表させる。中には一字一句間違いなく再現できた者もゼロではなかったが、8割くらいの再現度を達成できる者は、全受講者数の6から8パーセントくらいであったであろうか。そしてここで、「聴く」ということの難しさや重要性を再確認し、この“詞”と新入社員との関わりについてプログラムをまとめる。
気分転換の意味合いもあったのだが、真剣に取り組む新入社員の顔が目に浮かび、懐かしく思い出す。
阿川佐和子著「聞く力―心をひらく35のヒント (文春新書)」がバカ売れしているようだが、「生きているということは」という永六輔の詞を、もう一度かみしめてみる価値は十分にあるのではないかと思う。