広辞苑に、明察とは、はっきりと事情や事態を見抜くこと、と、ある。
冲方丁の天地明察を映画化した「天地明察」も、数々の挫折を繰り返しながら日々の暮らしに直結する暦を正しく作り直すために、命を賭し、「天と地の関わりや道理について、はっきりと、見抜く」という大事業に挑む安井算哲(岡田准一)を描いた作品である。
代々将軍に囲碁を教える名家に生まれた安井算哲は、対局よりも星と算術にのめり込んでいたが、会津藩主.保科正之(松本幸四郎)の命により、日本全国で北極星の高度を測り、その土地の位置を割り出す「北極出地」を命じられる。
旅の役人頭.建部昌明(笹野高史)や伊藤重孝(岸部一徳)を補佐しながら北極星の高度を測り続ける算哲は、それまで800年にわたって使われてきた暦(中国.唐の時代)に重大な誤りのあることに気付く。
旅から戻った算哲は、藩命により、その誤りを正す改暦の大事業を担うことになったのだが、水戸光圀(中井貴一)の絶大なる支援や算術や天文学に魅入られた多くの仲間たちの支えとは裏腹に、朝廷との間に、のっぴきならぬ軋轢を生むことになる。当時、公家.宮栖川友麿(市川染五郎)などが牛耳る朝廷に暦を司る専権があったのだ。
朝廷から度重なる理不尽な仕打ちを受け続ける算哲であったが、妻.村瀬えん(宮崎あおい)の献身的な支えを気力に換え、「正確な星の動き=天と地の道理を明察」するという、生涯を賭けた挑戦が始まる。
笹野と岸部が、あたかも、軍隊が隊列を組んで行進するときのように、「一、二、一、二...」と手足のリズムをとって歩く姿が「山野遠方を行くのに誠に不自然」と思いながら観ていたのだが、計測地点から次の地点までの距離を「歩幅&歩数」で測っているのだと分かるまでに、少しの時間が必要であった。
岡田准一や宮﨑あおいの初々しさはともかく、笑いと涙を誘う笹野高史と岸部一徳の演技は第一級品。松本幸四郎、中井貴一、市川亀治郎などの重厚老練な配役で脇を固め、安心して物語の中に入っていくことができる作品である。
二、三日前の新聞に「魏志倭人伝に、卑弥呼が葬られた墓を径百余歩とする」という記事が載っていた。一歩は1.44mとされていたそうだから「径百余歩」は直径150mくらいの円墳であろう、と推測されていたそうだ。今ならば、航空写真などで瞬時に計測できるのであろうが、当時は、人体すべてを駆使しながらの計測作業であったのだ。
“暦”といえば、年末が近づくと“新聞屋さんが持ってきてくれる物”くらいにしか考えていなかったが、それと同じように、いま我々が何の感慨もなく日常的に使っている「文明の利器」には「天地明察」と同じような悲喜こもごもなる物語が、秘められているのであろう。
算哲とは特別な関わりはないと思うのだが、学校の算盤の時間などで、「御破算(ごわさん)で願いましてはー、一銭なり二銭なり....」と先生が問題を読み上げ、生徒が出した計算の答えが正しい場合「御明算(ごめいさん)」と先生が言ってくれていたものだが、いまでもそのような丁寧な言葉遣いのやりとりで授業が行われているのであろうか。