ご主人の転勤で伊賀上野に移り住んでいる妻の仕事仲間(赤ペンさん)を訪ねお昼をご一緒し奈良のお寺巡りに向かったのは、今の鹿島の家に落ち着いてから間もなくの事であったが、もうずいぶん昔のことのように思う。
近鉄奈良駅の近くに宿を取ったのだが、通りの真ん前に「古梅園」という墨の専門店があったので覗いてみた。奈良墨の本流を行く製墨業の老舗.奈良古梅園(登録有形文化財指定)の出店である。
奈良墨は1400年(応永七年)奈良興福寺で造られたのが始まりだそうで、同社のHPには「文化の故郷奈良にて製墨を始めまして四百有余年今日に至って居ります」とあり、漱石の“墨の香や奈良の都の古梅園”という俳句も紹介されている。
有形文化財指定の古梅園を見逃してきたのは惜しまれるが、奈良の旅の記念に「お花墨 古梅園」を買ってきた。店の主人は「この墨は日常使いの定番品です」と言っていた。
墨には、菜種、胡麻、桐の油を燃やして採った煤から製する「油煙墨」、松脂(まつやに)を燃やしての「松煙墨」があるが、「油煙墨」は、粒子が細かく、黒さが深く、光沢の強い良質の墨ができるそうで「当園では、代々継承した秘伝によって、上質の油煙墨を守りつづけています」と書かれている。
8月23日のブログ.妻の書 二題の「梅」と「紅」は、奈良古梅園の墨を使って書いたものだが、相方の硯は「東京玉泉堂」の硯である。
妻の母親は三河山間部の出だが、その当時としては珍しく女学校を出ている人であった。毛筆などの書体は柔らかく優しさがにじみ出ているような整ったものであったが、この「硯」は義母が女学校の頃に使っていたものらしい。
東京玉泉堂は1864年(元治元年)奈良に製墨工場を設立し、1875年(明治8年)に 東京日本橋大伝馬町に筆や墨や硯の販売所を創設したそうだ。
梅干しザルをご縁にした「梅」と「紅」そして「和」、まばゆい秋空が広がる佳日には、妻の次の作品が見られるであろう。
娘の書を見て、きっと、義母も喜んでいるに違いない。