此のところ、食卓にイワシの丸干しが載ることが多くなった。昨夕のご飯が残った次の朝など「今朝はご飯にして貰いますから」と言われることが間々あるのだが、焼きたての丸干しで「チン」した熱々のご飯を頂くのは最高である。
自分は、頭は取って焼くのだが、丸干しの半分くらいを「ガブリッ」とやり、苦にならない硬さの背骨も一緒に「真いわしの美味しさ」を味わう。丸々として脂がのった丸干しは甘塩仕上げ、魚沼産コシヒカリの風味との相性は絶妙で細切りにした大根の白味噌仕立ての御汁があれば、これ以上の朝食は望めない。
豊浜は愛知県一番の漁獲高を誇る漁港なのだが、漁協の直営朝市や夕市には20軒ほどの店に蟹や貝や海老、干物や乾物などが威勢良く並ぶ。もともと乾物問屋であったサンヨネ(いつも買に行くスーパー)は、古くから豊浜漁協と取引があったようで、店頭には新鮮で良質な干物や乾物などが豊富に並んでいる。
干物の歴史によれば・・・
海に囲まれた我が国は、縄文時代の貝塚に魚や貝を干した形跡が見られるように、とりたての魚を天日干して食するという食べ方が古くから伝えられてきた。アジアやアフリカやヨーロッパでも、ニシンの干物や鱈の塩漬けの干物など、漁業の盛んな地域では様々な干物が造られているようだが、丸干しや目刺しや開き干し、煮干しや調味料干しや燻製など、我が国独特の食文化を育んできた。
魚肉に塩を加え低温で乾燥させると、魚肉のタンパク質が旨味成分に変わり魚肉に弾力性が加わって、食味が増すそうだ。
奈良時代に干物は宮廷への献上品や租税として納められていたそうで、平安貴族の食卓に欠かせなかったものの一つに数えられていたという。各地から奈良の都に海の幸を運ぶには、干物に加工する必要があったのであろう。
干物を(ひもの)ではなく(からもの)と呼ばれた平安時代になると、京の宮廷では酒宴に欠かせない肴の一品となったそうで、源氏物語には、光源氏たちが興じた酒宴の肴として「からもの」が登場しているというが、この時代に漁獲量と共に干物の生産量もぐんと増えたという記録があるそうだ。
江戸時代になると、各地の干物作りは大きく発展する。
諸大名は幕府への献上品として、また、藩の産業振興のために競って名産品の製造を奨励し、小田原の鯵の干物や明石の干し蛸や長崎のからすみなど、今に伝わる名産干物の多くが産出されたと言われ、干物は、食生活が豊かになった庶民の食卓にものぼるようになったそうだ。
たかが干物、されど干物である。
庭樹の片付けを手伝うと言って息子夫婦が来てくれたが、夕食はニギス(似鱚)の天婦羅で一献、次の日の朝食は、赤味噌仕立の生ワカメと豆腐の御汁ではあったが、豊浜の真いわしの丸干しを焼き、魚沼産コシヒカリのご飯を味わった。
水深100mから400mほどの砂泥底に棲むといわれるニギスは傷みが早く新鮮さが命の魚、蒲郡で堂々と店頭にニギスを並べられる店はサンヨネだけであろう。透き通るように光った二ギスの天婦羅は誠に美味である。
お店で「二ギスはどこから来るんですか?」と聞いたら「豊浜です」ということであった。