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2017年 07月 19日
345ページにも及ぶ大著・塩野七海著「ギリシア人の物語Ⅰ民主政の始まり」の抄訳は14話(昨年7月)という超長いものとなった。1年ぶりにⅡの抄訳を始める前に、アテネに黄金期を齎した偉大なるリーダーたちの足跡を“おさらい”しておこう。
ギリシア各地に都市国家(ポリス)が成立し始めた紀元前8世紀前後は、王政から貴族制へと変わる変革期、貴族・富裕層(馬や武器を自費で賄える)が軍務に就く決まりのアテネでは彼らに参政権が与えられ、一般市民には無縁のものであった。 未だ奴隷制度が温存されていた紀元前6世紀頃、自前で戦役に就く商工業者が現れ始め「我らにも参政権を!」の声が燎原の火の如く広がり「国政の案件は“市民集会(全市民参加)”に諮り多数決で決める」という民主政の種火が灯った。 ソロン(44歳)は、この状況を「貴族制から民主政移行の端緒」と認識、国政改革に乗り出す。紀元前594年のこと、ソロンは『奴隷廃止法案と階層別市民の権利と義務制度』を市民集会に提案し民主政を一歩前に進めたが、経済・軍事に極めて重要な島・サラミス島の奪還(現・メガラ領)を市民集会に諮り、それによる国論統一を企てる。 この“企て”を託されたペイシストラスト(22歳)は、他国との衝突を回避しながら軍事力増強を図り、二十数年をかけ、「サラミス島をアテネに」という国民の夢を実現、この間、児童教育に力を入れ、四方列柱の神殿建築技術を進化させ、女神アテナ祭を開催、「演劇はディオニッソス(酒神バッカス)に捧げる。観劇の後は葡萄酒を飲むべし」と定め、アテネを「古代ギリシヤ文化」の中心的な存在と成した。 ペイシストラストの偉業を引き継いだクレイステネスは、アテネ全域を10のトリブス、30のトリッティウム、150のデモスに再編、アテネ市民全員に戸籍を与え、特権階級の家門名を廃止、30、000人の兵力を創出して安全保障の基盤とした。更に、内閣・ストラテゴスを作り、30歳以上の成年男子から成る「500人委員会」を上院とし、成年男子(20歳)全員が参加する「市民集会」を下院として最高決定機関と位置付けた。 73歳のクレイステネスが死去、それを待っていたかのように、ペルシヤ王ダリウスはアテネに宣戦布告、紀元前490年夏、「マラトンの会戦」が始まる。 テミストクレスの命を受けた総司令官ミリティアデスは、敵の武器の性能や形状を分析し「ペルシア軍は防御面が弱点、わが軍の槍と剣は敵に勝る」と接近戦を有利に進め、ペルシア軍団を壊滅させ、ペルシヤの常勝神話は崩れた。 王ダリウスは35歳の息子クセルクセスに「雪辱戦」を言い遺し死去(紀元前486年)。 平和を享受し始めたアテネ市民に40歳のテミストクレスは「ペルシアの再侵攻は迫っている。三段層ガレー船の建造が急務」と主張し、反対派のアリスティデス他を『陶片投票』を利用し追放、200隻の三段層ガレー船造船を可決した。 テミストクレスは「船底に石を積んだ重い船、風や潮の変化に臨機応変に対応できる小型船」とし、「漕ぎ手は奴隷から市民」方式に改め、剣と槍を与え、実戦訓練を通して操船技術を高めた。 紀元前481年秋、ペルシア王クセルクセスは20万の陸上軍を率いエーゲ海に近いサルディスに入った。海上軍は海運用大型船1200隻、対するスパルタを含むギリシア連合陸軍側は2万、海上軍400隻。 総司令官・テミストクレスは、偵察情報から「陸上戦はテルモピューレ峠、海上戦はアルテミシオン岬」と判断、「テルモピューレ峠でペルシア軍を2ヶ月釘づけにすると40万の敵軍の食糧や水は底をつく」と考え、重装歩兵軍団率いるスパルタの猛将レオニダスに「釘づけ作戦」を託した。 レオニダス率いる精鋭スパルタ兵士は無駄のない攻撃でペルシア側に甚大な損害を与え、王弟二人が率いた2回目の総攻撃も勇猛果敢な攻撃で圧倒、王弟二人も戦死。 挟み撃ち戦法に切り替えた3回目の総攻撃、レオニダス軍は嵐の如き矢の雨を受け、「釘づけ作戦」を果たすことなく、壮烈なテルモピューレの激闘は終わった。紀元前480年8月のことであった。 急遽、テミストクレスは艦船団をサラミス湾に向けて南下せた。「ギリシア海軍はサラミス湾に逃げ込む」と勘違いしたペルシア海軍もサラミス湾に向け南下し始め、史上有名な「サラミスの海戦」の火蓋が切って落とされた。 王クセルクセスは決戦の模様を見下ろせる崖の上に「玉座」を運ばせ、海戦の総指揮を王弟に任せたが、アテネ海軍の奇襲作戦が炸裂、自在に舵を切り、Uターンでもするかのように大きく左右に旋回しながらペルシア海軍を完全包囲、テミストクレスが発する信号で『重い船』は敵艦船の船腹目がけて激突、ペルシアの艦船は破損船や沈没船が続出、ペルシア王が見たものは悪夢と地獄、優れた戦略とその猛攻でギリシア軍の圧勝に終わった。 紀元前480年9月23日のことである。 しかし、テミストクレスは「今度は陸軍が北から攻め上がって来る」と状況判断「敵と互角に戦える条件は、ペルシア海軍の集結地・サモス島を奪還し背後の敵を一掃しておくこと」と戦略を定め、連合艦隊と陸上軍の連携でサモス島を奪還。 テミストクレスの読みが的中、第二次ペルシア戦役から2年目に入った紀元前479年夏、プラタイアの平原で因縁の戦火が切って落とされた。 スパルタも参戦したギリシア連合軍の総司令官は34歳のパウサニアス(レオニダスの甥)、 アテネを北上し樹木が生い茂る丘陵地帯を超えると広大なプラタイアの平原が広がる。平原を二分するアゾポス川対岸一帯がペルシア軍の集結地。 ギリシア連合軍指揮官パウサニアスは「騎兵隊の戦力を削げば後は怖いものなし」と丘陵近くに立て籠もる。ペルシア騎兵隊1万騎がアゾポス川を渡り突撃してくるが、騎兵隊が丘陵地帯に入り動きが鈍った瞬間、4メートルの長槍で馬を仕留め、馬上から騎兵を引ずり落として突き殺す。団長戦死の報が伝わると、全軍、自陣目指して逃げ帰った。「プラタイアの戦闘」もギリシア連合軍の大勝利に終わった。 勝って兜の緒を締めよ、テミストクレスは「過去の成功事例は不要、新たな“長期にわたる安全保障”を考えねばならない」と平和ボケのアテネ市民を戒め、アテネと外港ピレウスまでの7.5キロに幅180メートルの両側に高さ6メートルの城壁化道路を建設し、アテネの安全保障を強化した。この結果、アテネは東地中海全域の一大通商センターとしての地位を保ち続けることになる。 時代が進み、穏健派領袖アリステイデスの息子・キモンにより、53歳になったテミストクレスは陶片追放され、旧敵国ペルシアに逃亡、王アルタ・クセルクセスの腹心となった。 14話に渉った「民主政の黎明期から成熟期まで」の抄訳を、話の筋と史実の面白さを損なうことなく1話にまとめる事は、自分にとって、大変なことであった。次回から『ギリシア人の物語Ⅱ民主政の成熟と崩壊』に入るのだが、さて、『民主政の罠』が何処にどのように仕掛けられていたのであろうか、お楽しみに。 ※昨18日は投稿予定日でしたが、エキサイトブログのサーバー・メンテナンスが長引き、本日に変更しました。
by c-bridge
| 2017-07-19 13:05
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