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2017年 08月 01日
三段層ガレー船150隻、兵士30、000人、ストラテゴス4人という、全ての人・物・カネを投入して惨敗したシラクサ攻防戦でアテネの国家財政は空っぽ、スパルタ王アギス率いるペロポネソス同盟軍はアテネ市街地から30キロと離れていないデケレイアを基地化し攻撃を強化、それに連れ、デロス同盟国の離反が加速していった。
「すべての災いの根源は民主政体にある」というデマゴーグに扇動されたアテネ市民は大混乱を来したが、長年民主政で育った市民の国を思う情念は底知れない力を発揮して150隻の三段層ガレー船を建造、市民が挙って漕ぎ手や戦闘要員に志願、30、000人の戦力を整えて、アテネ海軍の再起を成し遂げた。 だが、紀元前431年から404年までの27年間もの間アテネとスパルタが闘い続けた「ペロポネソス戦役」の最後の8年間の主戦場はエーゲ海東の海域に移って行く。 エーゲ海東端にあるサモス島のアテネ海軍基地とアテネ外港ピレウスの海軍基地は、エーゲ海世界を西と東から睨みを効かせる都市国家アテネの戦略の要であると同時に通商・外交の要であるが、国際手配になっていた犯罪者・アルキビアデスが、サモス島のアテネ海軍基地の指揮官に返り咲いていた。 ペルシアはアテネの弱体化を好機と捉えスパルタに「必要な資金を援助する」と誘い、両国の共闘路線が成立、スパルタ海軍がエーゲ海を北上しマルラマ海に抜けるへレスポントス海峡でアルキビアデス率いるアテネ海軍と対峙する、が、狭い海峡で操船術に長けるアルキビアデス率いるアテネ軍に軍配が上がる。 写真 この後も、アルキビアデスはスパルタとの会戦に連戦連勝、これまでの鬱憤を晴らすアテネ市民の歓喜は想像を絶するものがあったが、それも束の間、新たな収入源を模索していた時の政権が大きな失策を犯してしまう。新たな税収を狙った新税に「アテネ商船は免除する」という例外措置を講じ為に、デロス同盟加盟国から激しい不満が巻き起こり、新税は撤回、同盟国の信頼関係を失うことになったのだ。 寡頭政権が崩壊し民主政権に戻ったアテネ市民はアルキビアデスを本国に迎い入れ、彼をアテネ軍の総司令官に選出した。 紀元前406年春、44歳のアルキビアデスは100隻の三段層ガレー船、1500の重装歩兵、150の騎兵という大軍団を率いてピレウス港を出港、エーゲ海を東に進む。が、彼が祖国に戻っている半年の間に、エーゲ海東方の情勢は一変していたのである。 小アジア西部を治めるペルシア王の実弟・キュロスが連戦連敗のスパルタに「アテネに勝つ策を講ずべし」と最後通告、資金援助国ペルシアを無視することが出来ないスパルタは、農奴あがりの兵士・リサンドロスを起用し海将に任命した。 元々、都市国家スパルタは北から侵攻してきたドーリア民族に先住民が征服されて出来た国家であるが、征服者側をスパルタ人=市民とし征服された側の手工業者・商業者をペリオイコイ及び農業者その他をヘロット=農奴としこの階層を完全に固定化してきた国である。リサンドロスは最下層出の兵士であったのだ。 海将リサンドロスはペルシア・サルディスにいるキュロスに拝謁、戦略・戦術・資金面総ての白紙委任状を手にし、スパルタ海軍基地をサモス島に近くキュロスが君臨するサルディスからほど近いエフェソスに置いた。 彼は豊富な資金力に物を言わせ、周辺のギリシア都市国家から練達の造船技能集団を集めて造船所を建設、アテネ海軍を質量ともに凌ぐスパルタ海軍の結成を目指した。海将リサンドロス率いるスパルタ海軍は、完全にペルシアの傭兵と化したのである。 アルキビアデスは、副官アスティコスに「自分が戻ってくるまではスパルタ海軍とは戦端を開いてはならぬ」と厳命を与え、敵情視察のためにサモス島から北のフォカエアに向かったのだが、この副官は「自分が率いる艦船団で勝利しアテネの英雄に名を連ねたい」という欲望に勝てず、アルキビアデスの命に背いて、スパルタ海軍が停泊中の軍港ノティオンに向かったのだ。 しかし、リサンドロスの策略にはまったアスティコス軍は敗走を余儀なくされたが、リサンドロスは「スパルタ側で戦えば命は助ける」とし全員がリサンドロスの配下となってしまった。長年の血と汗と涙で培われてきたアテネの造船技術のノウハウが、いとも簡単に、スパルタ側に流出してしまったのだ。ギリシア民族のスピリットの劣化は覆うべくもなく、地の底まで落ちたのである。 「アスティコス軍全員がリサンドロスの配下になった」という情報が本国に伝えられると、アルキビアデスはアテネ軍の最高司令官を解任され、アテネは再び扇動家に牛耳られる国に戻ったのである。 アテネ民主政府は最後の決戦地・エーゲ海東方に海軍を派遣するために、再び市民に特別税を課し神殿や神像の金張りを剥がし銀製の祭儀用の器具も溶かし、広く市民の徴兵を呼びかけ、なんとか110隻の三段層ガレー船を建造した。紀元前406年、この年に選出された10名のストラテゴスのうち8名を艦船団の司令官に任命したのである。 サモス島基地の艦船を加えるとアテネ海軍は150隻、ペルシアの資金援助で100隻まで増強されたスパルタ海軍が熾烈な戦いを繰り広げたのは、エーゲ海レスボス島と小アジア西岸沖合のアルジヌサイ島近海であった。が、急造りのアテネ軍の操船技術の習熟度は低いまま、対するスパルタ海軍は配下となった元アテネ海軍のノウハウを十分に取り込み優位に戦いを進めたが,大嵐に襲われて戦いは大混乱、双方に沈没する船が続出し多くの犠牲者を出すことになった。 この情報にデマゴーグの声が一段と高まるアテネ、救出されずに海中に沈んだ家族を中心に怒り狂ったアテネの民衆は、対スパルタ戦に送られた8人のストラテゴスの全員を告訴、死刑が実施された。 カネでスパルタを牛耳ろうとするペルシアに嫌気がさした若きスパルタ王・パウサニアス はアテネに講和を申し出た。ギリシア世界の二大強国の間に和解が成り立つかに見えたが、スパルタが提示した厳しい条件をデマゴーグが歪曲喧伝、市民の怒りは頂点に達し、アテネ民主政府は講和交渉を中断、アテネとスパルタの和解は遠退いたのである。 このようにして、ペロポネソス戦役も26年目となり、紀元前405年を迎えた。 海将を務めていたリサンドロスは「アテネ勢力を駆逐する最短の方法は“兵糧攻め”である」とし、再び海軍を率い、へレスポントス海峡のアビドスとランプサコスの港を占拠した。 アジア側とヨーロッパ側を隔てるへレスポントス海峡は広い所で10キロと離れていない。アビドスとランプサコスの港を押えれば、マルラマ海峡を経てへレスポントス海峡を通りエーゲ海からアテネに向かう商船は完全に遮断される。 この情報はアテネを震撼させた。 慌てふためいたアテネ、有効な戦略を見い出せないまま、同盟国の総力とういうべき180隻(30、000人の漕ぎ手)の三段層ガレー船をへレスポントス海峡に向かわせ、スパルタ海軍が待機するランプサコスとの対岸・アイゴスポタモイの港に入った。 しかし、アイゴスポタモイは港というよりは狭い砂浜、大船団の停泊には全く不向きの港であった。 たまたま、近くの町で隠居していた国外追放中のアルキビアデスがこの噂を耳にし「あそこは駄目だ!」とばかりに馬に鞭をくれ、軍団の前に現れた。「ここは兵糧の補給が困難、軍が居続けるのは危険極まりない。エーゲ海により近いセストスに移り態勢を整えるべきだ」と進言した、が、大艦船団は聞き入れることなく、そのまま居続ける。 この情報を得たリサンドロスはアテネ側を急襲、「アイゴスポタモイの海戦」が始まる。紀元前405年8月のことであった。 「いまに目に物見せてやる!」と勇み立ったアテネ軍、戦術に長けたリサンドロスは「サッ」と急襲の手を止めアテネ軍の目の前を引き返す。「敵、恐るれに足らず」と見たアテネ軍は船を下り食料の調達に出掛けた、が、「時は今!」とリサンドロスの号令一下、スパルタ海軍の総攻撃が始まった。土俵上で仕切り直しをする間もなく、アテネ軍は一網打尽。リサンドロスは「命は助けてやる」と、アテネの艦船170隻と30、000人の兵士はスパルタの配下に繰り入れられた。 著者が述べているように「そこで闘われた海戦は“アイゴスポタモイの海戦”と呼ばれるが、海戦の名に全く値しない海戦であった」のだ。 その後リサンドロスはへレスポントス海峡両岸の港を悉く平定しアテネへの食の遮断を徹底しながら、デロス同盟諸国に「すべての物を置いて即刻故国せよ。守らない者は処刑」と宣告、アテネ富裕層の富の源泉だった海外資産も一掃され、創立から75年もの間アテネを支えてきたデロス同盟は完全に解体されたのである。 引揚者を満載した船を追いかけるように、150隻の三段層ガレー船を率いたリサンドロスが、アテネの外港・ピレウスに迫ってきた。一方、首都アテネの北に広がるアッティカ地方からは、アギスとパウサニアスの二人のスパルタ王率いるペロポネソス連合軍が迫り、アテネは陸と海の双方から攻撃されることになったのだ。 民心を動揺の渦の中に巻き込んだデマゴーグは影を潜めたが、減る一方の食糧と家族の生命への不安がアテネ全土を覆い始める。 サモス島でアルキビデアスの副将であったテラメネスが敗戦処理の交渉役となったが、ペロポネソス同盟の強国コリントとテーベが「戦役を終わらせるな、アテネ市街総てを破壊し男全員を抹殺、女子供全員を奴隷とすべし」と強硬に反対した。が、交渉全権を握るスパルタ王・パウサニアスは「諸君の国が自由な都市国家として今なお存続しているのは、80年前にアテネが先頭に立ち貴国に侵攻してきたペルシア軍を追い払ってくれたお陰、それを忘れたか!」と一喝、この一言でアテネは救われ、パルテノン神殿も救われたのである。 著者は「アテネは若きスパルタ王パウサニアスの、日本で言うならば“武士の情け”、ヨーロッパで言う“騎士道精神”によって救われたのである」と評している。 しかし、交渉結果は無条件降伏。 「アテネはスパルタの同盟国となりデロス同盟は解散する。三段層ガレー船は12隻までとし外港ピレウスとアテネを結ぶ7.5キロの長い壁は破壊、反民主派の帰国を受け入れる事、スパルタ進駐軍の陣地をアクロポリスに置く事、統治は民主政から寡頭制に変える事」という屈辱極まりないものであった。 ソロンから始まったアテネの民主政はぺイシストラストによる経済発展を招き、クレイステネスは民主政への完全移行を実現し、テミストクレスによるペルシアの完全なる撃退を経てペリクレスが民主政の完成を成し遂げたアテネ、紀元前404年に滅亡は免れたものの衰退は誰の目にも明らか、ギリシア世界の覇権を完全に失ったのである。 著者は「ギリシア人の物語Ⅱ」を終えるに当たり「人間にとって最大の敵は、他の誰でもなく、自分自身である。アテネ人は、自分たち自身に敗れたのである。言い換えれば、自滅したのであった」という同時代(紀元前469年頃から紀元前399年)を生き、民主政の成熟と崩壊を目の当たりにしてきた古代ギリシアの哲学者ソクラテスの言葉を紹介し「やはり、ソクラテスの教えは正しかったのだ」と結んでいる。 「ギリシア人の物語Ⅲ」は今年の12月末に上梓されることになっている。 古代ギリシアにはギリシアという国は存在せず500にも及ぶ都市国家を総称してギリシアと呼ばれていたに過ぎない。アテネを首都とする現ギリシヤ共和国に生まれ変わる道筋は果てしない道程であったのだが、「自分たち自身に敗れ、自滅した」アテネは、遥か彼方の一筋の光を求め、市民の英知と汗を絞りながら、暗くて暗くて長い長いトンネルにも出口があることを信じ『歩み』を続けてきたのであろうか。
by c-bridge
| 2017-08-01 17:39
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