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2016年 06月 03日
一昨年の梅干は、庭の梅の実が三分の一と店頭の梅の実が三分の二で漬けたものであったがとても上出来、子供たちにもすこぶる評判よろしく何回かに分けて持って行って貰った。残りは大小のガラスの器に保存しておき、おにぎりに入れたりお粥などに載せたりイワシの煮付けに入れたりしていたが、今年に入って、妻と最後の一粒を半分ずつ分け合ってお仕舞いなったのである。
重宝していた自家製梅干が段々と少なくなるに連れ「買うと高いしね、今年は漬けようね」という話が出始めたのだが、妻は早速、玄関に『梅しごと』の書を貼り出し、家の内外に?高らかに宣言してしまったのである。 広辞苑によれば『仕事とは事をかまえてすること』とあるが、梅干づくりに細心の心遣いを寄せる料理研究家・辰巳芳子のルポルタージュなどを観ると、確かに『梅干づくりは仕事』であると思う。軽い気持ちで「ちょっと、やってみるか」では『美味しい自家製梅干』を手にすることは出来ない。実際に梅干づくりに挑戦した一昨年の体験を思い返してみても「確かに仕事だ」と思うのである。 今年の梅の花は、これまでにないほど、枝という枝を埋め尽くし薄桃色の艶やかな立ち姿を楽しませてくれたのだが、「これまでにないほど」の珍事は、それだけではなかったのである。花の周りを飛び交う蜜蜂も例年に見られないほど多く、次から次へとやってくるメジロの群れもそうであった。いつもはペアーでやってきて品よく蜜を吸っていくメジロであったのに今年は団体さん、「爆買いではなく“爆吸”だね」と呆れるほど賑々しいものであったのだ。 梅は花が終わると小さな実をつけ始めるが、新葉が芽吹き実が一定の大きさになると「ぽたぽた」と落果が始まる。ここ数年は、幼い実の大部分が落果してしまい一人前の『梅の実』となるものは数個しか残らないという情けない状態が続いていたのだが、今年は全く異なる様相を呈していたのである。例年と変わりない落果があったにも関わらず、驚くばかりの実が枝に残ったのである。 幼い実の落果の多寡は樹齢の関係や樹の勢いなどによるものだと思うのだが、蜜蜂とメジロのお蔭で、濃密な受粉が行われた結果ではないか、と、思うのである。 裏山の『タケノコの蹴り倒し』の季節も終わり、1キロ800円前後の値札が付けられた梅の実が店頭に並び始めた。庭の梅の実も“800円”に引けを取らないほど一人前の大きさに実ってきた。 庭に出ては梅の樹の枝を透かして実のなり具合を確かめる毎日だが、5、6粒の実が葡萄の房のように付いている枝をあちらこちらに見つけると「史上最高の収穫、間違いなし!」と天にも昇る心地、「よーし、今年の“梅しごと”は確りとやるぜ!」と気合が入るのである。 6月1日、満を持して『収穫』を始めたのだが・・・ 先ずは樹の根元にしゃがみ首を上向き加減にしながら葉陰の実をもぎ取り籠に入れて行く。膝頭を地面に着けたままグルリと樹を一周する収穫作業は、かなりしんどいものだ。不思議なもので「よし、これで全部とり終えたな」と思ってひょいと別の角度から見ると「ややっ、あそこにもある!」となり「ややっ」を幾度となく繰り返すことになるのである。 次は、腰を曲げた状態で目線を上下させ、枝の茂みに入ったり外へ出たり、手を伸ばしたり曲げたり、背伸びしながら実をとっていく。最後は、脚立の上に立って枝の最上部の実を攻めるのである。 一時間半ほどかけて「収穫作業」は終わったのだが、脱衣所に置いてある体重計で量ってみると、なんと、9キログラムもあるではないか。 この一本の木から9キログラムもの梅の実がとれたとは、どう考えても、不思議な気がするのである。 #
by c-bridge
| 2016-06-03 14:50
| わが日常
2016年 05月 31日
6月の15日と16日、最後の日本ツアーとなるチャールズ・アズナブールのコンサートがNHKホールで開催される。
フランスを代表するシャンソン歌手・チャールズ・アズナブールは1924年5月の生まれ、92歳が歌い上げる『ラ・ボエーム(La Boheme)』は、観客の胸に、どのように響き刻み込まれるのであろうか。 CD:SUPER NOW CHARLES AZNAVOURの冊子によると、『ラ・ボエーム』は彼自身によって作曲され、若き画家同志の青年の夢と挫折の物語であると解説(大野修平氏)されている。 「いまはもう遠い二十歳にも満たない日々の話しをしよう。モンマルトルのアパルトマンの二人の部屋の窓にはリラの花が咲いていて・・・」という歌詞なのだが、ステージでは、白いハンカチを小道具として巧みに使いこなしながら歌い演じるという。 “赤い風車”を意味するパリ・モンマルトルのムーラン・ルージュ、当時『ばら色の人生や愛の讃歌』などフランスを代表するシャンソン歌手・エディット・ピアフなど超有名歌手が出演していたキャバレーだが、いまだ無名の大勢の歌手の卵たちも舞台に上がっていた。その中に、チャールズ・アズナブールも埋もれていたのだが、1946年、エディット・ピアフにその才能を認められ、世界的な歌手としての道を歩むことになっていったそうだ。 彼を世に出したエディット・ピアフは、もう一人の世界的なシャンソン歌手を育て上げている。彼と同じムーラン・ルージュでその他大勢組の一人として舞台に立つイブ・モンタン、その非凡さを彼女は確りと見定めていたのだ。チャールズ・アズナブールが人気歌手となる年の2年前、1944年のことであった。 妻の幼友達から「居間の改装祝に」と言って届けられたオーディオ・キャビネットには上下二段の抽斗があり、上段にはオペラ座の怪人やレ・ミゼラブルなどのDVD、下段にはサラ・ブライトマンやエンヤなどのCDがびっしりと収納されているが、その中に、ジエーン・バーキンやジュリエット・グレコやエディット・ピアフやチャールズ・アズナブールなどシャンソン系のCDがある。この2月、彼らの仲間『イブ・モンタン ベストヒット全曲集』が加わった。 CD・YVES MONTANDOベストヒット全曲集の解説(永田文夫氏)によれば『1921年イタリア・モンスマノ生れの彼の本名はイヴォ・リヴィ、芸名のモンタンは、わんぱく小僧だった子供の頃、外で遊んでいると、母親がよく窓から顔を出して「イヴォ、モンタ(イヴォ、上がっておいで)と叫んだ」ことから名付けられたという。 イブ・モンタンと言えば映画『恐怖の報酬』を思い出すのだが、自分が初めてシャンソンなるものに接したのは、高 英男(日本→シャンソンの草分け)が1953年(昭和28年)にレコードデビューした歌曲「枯れ葉」ではなかったかと思う。ラジオから流れる歌詞を雑記帳に書き留め、メロディーを覚え、口ずさんでは一人悦に入っていたものである。 今思うと吹き出してしまうのだが、高 英男の『枯れ葉』は、日本語の歌の後にフランス語でも歌うのだが、これまで、見たことも聞いたことも無い初めて聞くフランス語の歌詞も、何とか聞き分けては書き留めたものだ。高がフランス・パリへ留学し、ソルボンヌ大学で学んだのは1951年(昭和26年)というから、何某かのフランス語は話せるのかもしれないが、イブ・モンタンの『枯れ葉』に耳を澄ますと、高のフランス語もなにやら怪しく思えるのである。 『Les Feuilles mortes 枯葉』は、フランス映画『夜の門』に出演した新人歌手イヴ・モンタンが劇中で歌ったものがオリジナルだそうだ。 昭和28年というと自分が高校生のときであったが、NHKの『ラジオ歌謡』が全盛期を迎えていた時代、近江俊郎の『山小舎の灯』や伊藤久男の『あざみ歌』や岡本敦郎の『リラの花が咲く頃』など数多くの名曲を経て1962年まで16年間も続いた。その中に、内村直也作詞・中田喜直作曲、高 英男が歌う『雪の降るまちを』があった。 例に洩れずこれらの名曲も『歌詞を雑記帳に、メロディーを口ずさんで』いたのだが、見開きで楽譜と歌詞が同時に見られるNHKラジオ歌謡の冊子が月一発売されていた。岩見沢駅前の楽器店であったか本屋であったか、店頭に並ぶのを待ちに待って買い求めるのが、高校時代の一番の楽しみであった。長い事手元に置いていたが、松戸から引っ越してくるときに廃棄してしまったのだが、今思うと、実に惜しい事をしたと後悔している。 さて、序論?が長くなりすぎたようだが、本論?に入ろう。 たまにお茶をしに来るご近所の方(自分と同い年のおばあさん)でシャンソンを聞くのが大好きという人がいる。イブ・モンタンのCDを買った直後の事「良い音楽でもききましょうか」といって妻とお茶を淹れながら一緒に『枯れ葉』に聴き入ったが、“居眠り名人”と自称するこの方、最初に、低音で柔らかな心地良い響きのあるモンタンの語りが入るのだが「幸せだねー、静かな居間でお茶を飲みながら良い音楽を聞くのは・・」と言っていたが、情感溢れるこれぞ典型的なフランス語と思われる舌まわし?で『枯れ葉』が終わりに近づく頃になると、瞼が閉じ気味になり『セ・シ・ボン』になると瞼が開かなくなり『パリの空の下』が流れる頃には“こっくりこっくり”が始まるのではないかと思うほど、静かに静かに聞いて・・・「またねー」と言って帰られた。 『YVES MONTANDOベストヒット全曲集』が、ウグイスの囀りが聞こえる鹿島の家の居間で、おばあさんの子守歌となっているなどということは、天国のモンタンでも、気がつくまい。 #
by c-bridge
| 2016-05-31 14:47
| わが日常
2016年 05月 27日
花の話題が続くが、息子夫婦から母の日プレゼントが届いた。縦長の大きな配送ケースを開けてみれば、ニチニチソウ(日々草)の鉢植えであった。真紅と桃色と桜色の三色の花がとても可愛らしい。
1週間ほどは居間の一等席に置いてあったが「置き場所は陽当たりが良く直接雨が当たらない所」という説明書きに従い庭に面した濡れ縁に移しのだが、雨の日は廊下部屋に運ばなければならない。 更に「水は土が白く乾くのを待ってから与えてください。湿っているのに与えると根を傷めます」という注意事項もあり、この鉢植えも、なかなか手間がかかるようである。 開花してから3,4日で落花するのだが、日々絶え間なく新しい花を咲かせ強い生命力を感じさせる。ニチニチソウ(日々草)とはよく付けた名前だと思う。 さて、息子夫婦から毎年贈られてくる母の日プレゼント、そのほとんどが『花の鉢植』なのだが、彼らが住むマンションの直ぐ前に花屋さんがある。予算の中で母親が一番喜んでくれそうな花を、店主が一緒になって、選んでくれるそうだ。 しかし、去年は『猿』のぬいぐるみが来た。HANSA TOY INTETNATIONALという所のものだが、手触りが良く表情豊かなぬいぐるみである。息子がインターネットで頼んでくれたものだが妻は「今更、ぬいぐるみなんか・・・」などといいながら、夥しい数の仲間たちが集まっている本棚に納めていた、が、これには少しばかり訳があるのである。 その前の年のお正月、朝ごはんが終わった後の団欒のひとときであったか、何年か前に贈って貰った鉢植え(サンパラソル)が話題となり「10月の末になると二階の日当たりの良い場所に移し水遣りにも気を付けているからとても元気だよ」とかいう話の件で、娘が「お母さんもお父さんも花が大好きで母の日プレゼントの鉢植えは喜んでいるけれど、お父さんがお世話するのも大変だよ、少し、歳のことも考えてあげないとね」と言ったのである。 これを聞いた息子も「それもそうだねー」と頷いていたのだが、いざ、母の日が近づいてくると「さてと、鉢植えがダメなら何がいいのかなー」と考え込んでしまい迷いに迷っているうちにその日が迫ってきて「えいっ!インターネットでぬいぐるみだ!」ということになってしまったようだ。 贈った本人夫婦も贈って貰った当人も『満足感』は今一つ、という経緯を辿り「やっぱり鉢植えだぜ」ということになり、今回のニチニチソウとなった次第である。 もう十年近くもお世話をしている庭の紫陽花、年を経るごとに花が小粒となり段々と貧相になってきて「もう十分にお世話したから」と、去年の2月“ダメモト”で根元から総ての枝を切り落としまったのだが・・・ところが「“ダメモト”になんかにはさせないよ!」とばかりに新しい芽が出てきて葉を出し枝となり、今年は花芽を沢山つけてくれたのである。 梅や椿やスズランや水仙などで賑わっていた庭も色気のない無粋な庭となってきたが、「ダメモトになんかにはさせないよ!」と踏ん張ってくれた健気な紫陽花のお蔭で、間もなくやってくるであろう梅雨に濡れながら、庭を明るく彩ってくれるのである。 「父さんの歳のことも考えてあげないとね」という娘の優しさにも「やっぱり鉢植えだぜ」という息子の優しさにも、老夫婦は、じんわりと体の底から温まってくるのを感じたのである。 #
by c-bridge
| 2016-05-27 15:46
| わが日常
2016年 05月 24日
鹿島神社の秋祭りに各戸に配られる『お楽しみ抽選券』がご縁で『ふんわりと大きく貫禄十分な上等な大福餅』と出会い、竹島水族館近くに店を構える和菓子屋『海月亭』という餅屋さんとの間にホットライン(いつでも電話で注文が出来る間柄)を開設し、母親の思い出につながる『へげ餅』を手繰り寄せた、という妻の執念について、今年3月4日のブログに面白おかしく書かれている。
この橋渡しをしてくれたのが『海月亭』のお嬢さん、家の近くに嫁いで一家を取り仕切る若奥さんなのである。 居間の大改装で『ヒグマのあなぐら暮らし』にも慣れてきた頃「これ、実家から貰ってきたものですが・・・」と言って例の大福餅を持ってきてくれた若奥さん、「一寸あがって!」と再三促すと「じゃー、一寸」と言って『あなぐら炬燵』にはまり込み妻と色々な話が弾んだということがあったのだが、その時妻が「改装が終わったら一度見に来てください」とお誘いをしていたそうだ。 床下の土間などが見えていた工事現場を見ていた若奥さんは「こんなに変わるものなんですねー」と感心し改装なった居間を見てくれたのだが、その時持ってきてくださったのが『オリエンタルリリーと可憐なカーネーション』の花束である。カスミソウがあしらわれた花束はさそかし高価なものであったろうと、申し訳なく思ったのである。 花瓶に活けながら妻が「大きな蕾ね、咲いたら見事でしょうね」と言っていたが、今朝起きてみると、花弁の先から先まで20㎝もあろうかと思われる大輪の花、ユリに見られがちな模様や斑点がない見事な黄金色。肉厚で光沢ある葉は大輪を一層引き立て『壮大な美しさ』『雄大な愛』という花言葉がピッタリの美しい立ち姿である。 日本のユリを原種にヨーロッパで品種改良がなされて生まれたオリエンタルリリーは日本ではゴールデン・カサブランカという名が一般的に知られている。鼻を花弁に近づけると完熟した『マンゴー』の香りがする。珍しい香りである。 この団地に棲みついて21年目になるが、お花を持ってお茶に来てくれた人は、海月亭のお嬢さんが初めてである。 #
by c-bridge
| 2016-05-24 13:35
| わが日常
2016年 05月 17日
快晴の気持ち良い朝であった。チエックアウトは11時30分なので比較的早く起き出し、部屋の整頓を済ませて朝食に出掛けた。
朝食券を渡しながら「窓際の席があれば・・・」と希望を伝えると、「少々お待ちください」と言って食事を済ませたばかりの先客のテーブルを手際よく片付け、正面に興福寺・五重塔が見える席に案内してくれた。 正面に座った妻が頻りにスマホのシャッターを切っている。 定食のメニューは『焼き魚、焚合、小鉢(二種)、御味噌汁、御飯、香の物』で、ホテル特製の梅干と海苔が添えられていた。 どれも美味しく一切れも残さずに平らげたのだが、特に、香の物の『瓜の奈良漬』が自然な軽めの味わいに加えサクサク感が小気良い。「帰りに見て行こうか、子供たちのお土産に丁度いいね」とホテルショップに立ち寄った。 ホテルオリジナルのケーキや缶詰類の他にグラスマットやポシェットなどつい手が伸びてしまいそうな土産物が沢山並んでいた。その横に、「三笠の朝食(和定食と茶がゆ定食)にご提供している奈良漬です」というカードが付され『瓜の奈良漬』が沢山積まれていた。 部屋に戻って「帰りに柿の葉寿司を買っていこうね、どうせなら、たなか奈良本店に行って買いたいよね」などと、もう夕食の心配が始まっている。 チエックアウトにはまだ十分な時間があるあるので興福寺まで散策に出掛けることにした。 ロビーでスタッフ氏に「柿の葉寿司のたなか本店の場所を教えてください」と頼んだらPCで所在地の地図をプリントしてくれた。ついでに「興福寺までの近道がありますか?」と聞くと、観光地図を広げ「10分ほどで行けますよ」と道順を丁寧に教えてくれた。 ホテルを出てすぐ右下に美しい大乗院庭園が広がっているが、その片隅にSt .Raphael Churchiというホテルが経営するチャペルがあり、そこの裏木戸を通り抜けると狭い路地に出る。チエックアウトまでの時間の制約もあるので歩を速めていると『この辻は不審ヶ辻と言って・・・』という立札が目に留まった。「魔物がどうのとか書いてあったが・・・」と気にはかかったのだが・・・250メートルほど進むと猿沢の池や興福寺が正面に見えてきた。十数年前に妻と娘が寺院巡りをしたときに泊まったというホテルが見ていた。 広い石段の両脇には若草を食む鹿が群れている。 改めて『不審ヶ辻』という不思議な名前の辻を調べてみたら・・・この辻には、かつて『鬼』が出て恐れられていた、という。 「昔々、この辻近くの御所馬場町の長者の家に盗賊が入ったが捕えられ、鬼隠山から谷底へ投げ込まれて死んだ。盗賊の霊が鬼になり、毎晩、元興寺の鐘楼に現われ、町の人たちを襲うようになった。元興寺の小僧(後の法師道場上人)は「私が鬼を退治します」いって、鐘楼の陰で待ち伏せし鬼と激しく戦っていたが、朝方、逃げだした鬼が細い辻までくると、ぱっと消え姿を隠した。それ以来誰いうとなく、この辻を『不審ヶ辻』と呼ぶようになった(奈良市民間説話調査報告書による)」 元興寺の鐘楼は、今は、新薬師寺に移されているという。「鐘には鬼の爪あとがぎょうさん残ってる」と伝えられているのだが・・・古都には様々な言い伝えが残されているようだ。 部屋に戻って帰り支度を始めたが「柿の葉寿司、本店で買っていくよね」と再三確認をするのだが、妻は「高速のSAでも売っているから、寄らずに早く帰りましょうよ」となかなか「うん」と言わない。有名和菓子の本店ならば「寄っていこう、寄って行こう」と凄まじいアプローチを掛けて来るのが常なのだが、せっかく地図まで用意したのに、和菓子と寿司では熱意の拠り所が異なるものらしい。 帰路についた。一旦JR奈良駅まで行き近くのGSで給油、大和郡山の名阪国道入口を目指して走り出したのである。 名阪国道は、往路の時と同様に、伊勢湾岸自動車道の亀山JCTまでの舗装工事で渋滞が続いていた。ようやく渋滞が解消して一か所目の御在所SAで休憩をとった。 御在所SAは “古くて汚い”というこれまで持っていた印象とは大きく異なり“明るく綺麗で便利“なSAに変わっていた。お手洗いを済ませて、茶屋風作り『赤福』でお抹茶のセットを頂いた。 妻は『赤福』はじめあれやこれやと買い集めていたが、『たなか奈良本店の柿の葉寿司』の扱いはなく、夕食は『柿安の牛めし弁当』となったのである。 無事に帰れてよかったなーという安堵感からか、帰ってから二日ばかり、飛行機の長旅の時に味わう「時差ぼけ」のような気だるさが抜けなかったが、往路復路430キロに及ぶ高速道の走行や西の迎賓館と言われてきたホテルライフを満喫したことなど『日常と非日常とのリズムの差ぼけ』であったのかもしれない。 それにしても、今回の旅は、古都の寺院巡りは思うようには出来なかったのだが、車椅子の妻と互いに労わりながら楽しんだ旅は、深い想い出の旅となったのである。 旅の折々を思い起こしながらブログに向き合った日々、奈良ホテルを取り囲むようにして咲いていた可憐な八重桜を想う度に、幾度となく胸に去来した歌があった。 『あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり』 『いにしえの奈良の都の八重桜けふここのへに匂ひぬるかな』 大伴旅人が太宰府の長官だった頃の役人・小野老(おゆ)が花の都・奈良から太宰府に都落ちしたときに詠んだとされる歌(万葉集巻三)と小倉百人一首にも選ばれた伊勢大輔(たいふ)が詠んだ歌である。 どうやら、淡紅色の小ぶりな花弁を有し稀に見る遅咲きの八重桜、そのルーツは古都奈良にあったようだ。一説によると、聖武天皇が三笠山(現在の若草山)の鶯ノ滝辺りで見つけ、その後、興福寺などの境内に植えられたといわれる。 奈良八重桜は奈良を代表する県花として、奈良市の市章や市花として県民市民から広く愛されているそうだ。 長く続いた『旅日記』も今回が最終回、またいつの日か、深く心に残るような『旅』に恵まれることを、心から願っている。 #
by c-bridge
| 2016-05-17 14:13
| わが日常
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